バストリオ『ストレンジャーたち/野生の日々』@vacant
2019年12月9日、バストリオ『ストレンジャーたち/野生の日々』@vacant を観に行ってきた。
演劇作品。
高い天井の倉庫の2階、中央に四角い水槽、プロジェクター、アクティングエリアには瓦礫のような木材やビニール傘、布など。座席は壁沿いに50席ほど。
開演
激しく乱暴に扱われるモノ、姉妹のようなおんなの子、大声を出す男、それぞれに狂気を孕んだ危うい身体、吐き出すように発せられるセリフ、自分の足元で不規則に点灯する照明、プロジェクターのすぐそばにある水、水に投げ込まれる石、とびちった水でぬれた床、爆音ノイズとともに多方向に映し出される映像、ギター、ホルン、民族楽器、場面から宙に浮いたようなおだやかな演奏するボブカットのトリオバンド、不安定に飛行して壁にぶつかって落ちるを繰り返すドローン、だれかの病気…どこかの風景。
始まってすぐ、声はただの音になって、意味がとれなくなった。
進行とともに目次のように投影される文字の意味も、うまく理解できない。瞬間瞬間、目の前で行われる乱暴に情報過剰な(音が大きくてうるさいという意味ではない)「音」から身を守ることが私のこの作品に関わり続ける態度だった。
足音、ドローンの音、声、石が水に当たる音、床を人間が這う音、材木や服が投げつけられる音、カリンバの音、「イヌ!」…から身を守りつつ何を体験したのか…。
意味を理解しようとして観ることを早々にやめたので、自分が持って帰ってきたことを言葉にするのは、とてもむずかしい
それでも…
10月、台風で友達の家が被災してわたしのバイクも友達の楽器もパソコンもとにかく地下にあったもの全部水没した。
頭で考えれば考えるほど、思考は目の前の「友達」から離れて理想化されていく。多分自分が普通に生活できているのもあって。
例えば人間は「所有する」ことにこだわっている。最近それは「時代遅れだ」とか言われているが、モノにかかわらず時間、感情、など、こんなに「所有すること」にこだわっているのは動物の中でも人間だけなんじゃないか。それはきっと人間が情報を「感情」と関連づけて「記憶」している生き物だから。「物」より「関係性」に価値が…、なんていうけど、もうみんな、わかりやすく1人で「失う」ことに疲れたよね、って、「関係性」なら1人で失わうことはない。そんなことを台風の後一ヶ月くらいもやもやかんがえていた。
バストリオの作品が表現したかったものかどうかはわからないけど、私がキャッチできたことは、そんな現実もふまえて
にんげん/境界 について
だった、と思う。
ここには“私の”部屋があった
ここには“私の”楽器があった
ここには“私の”思い出があった
ここには“私たち”の暮らしがあった
ここには“私たち”の関係性とその記憶がある
もうそこになにもない、さらの大地をみてそれを思う、生き物。
一体どこまで “私の” なのか。
名前をつける “私の”
石をひろう “私の”
植物を育てる “私の”
この体験、この記憶、この感情 “私の”
「ない」ということは「あった」もしくは「あったかもしれない」し、「失った」ということは「所有していた」。
「失う」は記憶によって成り立ち、「失う」をしたあとも記憶はしばらく残る。その誤差は感情として昇華される。ただ、「所有」から解放された時のもう失わなくていいのだという安心感はセカイ系アニメや漫画のそれにも似ていて、そればっかりを願ってもいられない。こんなにも記憶や関係性にがんじがらめになってそこからの解放を願いながら、どうしようもなく「“私の”石を拾う」衝動。誤差は快楽なのか?
それぞれの “私の”石が、一つの水槽に投げ込まれる。ピリオド、ピリオド。と音を立てて。それは溶けたりしないけど水にひたって一つのモノに集約される。そして透明な水槽で空間を区切られる。古い境界の消滅と新しい境界の出現。
私の石を拾う、も、私の木を育てる、も、私の家を建てる、も、地球上の「モノ」を「移動」して“私”と“私じゃない”の「境界線をひく」だけだった。それは虚しくもあるし希望でもある。生々しい「行為の音」を全身に浴びながら、感覚としてその虚しさとそれでしかないという希望を受け取れる作品だった。
とまあ、まとめて書くとそりゃそうだよね、という内容なのですが、この「まとめると」って行為は時に超ダサいし、もうどっかでよんだよ、なんどもみたよ、ということになる。ここからは作品を作るっていうはなしで、、
手法や手順を使えばひとの心を動かすのは簡単。かっこいいとか、かわいそうとか、すごいとか。
「*!@(&^#*@」っていう整理仕切れない衝撃や感覚を、人に伝わるように、受け入れやすいように作品があるんじゃない。
「自分の中の*!@(&^#*@」と「人にみせる意味(つたわらないと意味なくない?かっこいいって思ってもらいたいよね)」のバランスを慎重にとって選択し、決断する、そのバランスや線引きした線自体が作品っていうのではないか、うまく考えをまとめたものを作品というのではなく。
そういう意味でもいい作品に遭遇できた、とおもう。みれてよかった。
長くなっちゃった。
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